清水次朗長伝
無法者、無頼漢、ならず者、ごろつき。
博奕(ばくち)打ちはこういった言葉で表されることが多い。
俗にいう〈アウトロー〉である。
〈法律〉という文字の支配を拒んで生きる彼等は、文字資料として後世に残されることはまず無い。
博亦打ちであって、講談、浪曲、芝居、大衆小説、映画、テレビと、あらゆるメディアでヒーローとして描かれた清水次朗長は特異な存在だ。
後世、次朗長がかくも様々な分野で描かれたのは、1879年に文字資料として〈次朗長一代記〉が書き残され、1884年には〈東海遊侠伝〉として公刊されたからだろう。
浪花節の〈清水次朗長伝〉は講談が元になっている。
作ったのは旅回りの講釈師である清竜。
荒神山の喧嘩にも参加し、それらの見聞を話にまとめたものである。
清竜は後に松廼家太琉(まつのやたいりゅう)となり、神田伯山、玉川勝太郎に話を譲った
伯山はこの話に〈東海遊侠伝〉の内容を取り入れることにより、次朗長をヒーローに仕立て上げ、絶大な人気を得た。
東海遊侠伝
〈東海遊侠伝〉は天田愚庵の作である。愚庵は陸奥国磐城平藩(むつのくにいわきたいらはん)の藩士の子として生まれるが、15歳の時、戊辰戦争の悲運に襲われ、父母と妹が生死不明の行方知れずとなった。
平周辺を探索しても見つからない父母が、遠く関東の地で彷徨っているのではないかという思いと、職探しのために上京した愚庵。
維新の激動の世の中で、ひたむきに肉親を探す愚庵に多くの人は打たれ庇護した。
山岡鉄舟も、父母妹を執拗に探し続ける愚庵に心打たれたひとりである。
しかし野放図な愚庵の漂泊を危なっかしくて見ていられなかった鉄舟は、愚庵を次朗長に預ける。
1878年、文武両道に長ずる愚庵は、清水湊の侠客次朗長一家の食客となり、博徒の家に居候することとなる。
次朗長は裏社会、裏街道に精通した侠客である。
自分の縄張りはもとより、東海道から全国に渡る親分子分兄弟分のネットワークを駆使して、愚庵の肉親探しに協力した。
愚庵の、次朗長の家での生活は何もかもが初体験の連続であり、大親分次朗長から聞く一代記はさぞかし刺激的だっただろう。
根掘り葉掘り聞くうちに、一気に〈次朗長一代記〉を書き上げてしまった。
1884年、明治政府は〈賭博犯処分規則〉を公布。
博徒の存在を抹殺する強硬策を打ち出し、次朗長も逮捕されてしまった。
重罰に処せられた次朗長を救う一手段として、愚庵は〈次朗長一代記〉に急いで手を加え、〈東海遊侠伝 一名次朗長物語〉として発行し、次朗長の美談を世に問うた。