音曲・語り芸

浪花節・浪曲

浪花節と浪曲は同じ。
1872年、〈東京浪花節組合〉が結成され、新政府教務省の指示により芸の由来書を提出したとき〈浪花節〉という呼称が初めて公にされた。
昭和三十年代に入ると、日本浪曲協会は、蔑称としても使われていた古いイメージを嫌って〈浪花節〉という呼称をやめるようにNHKに要望した。
NHKは〈浪曲〉という名称で放送するようになった。

始まりは他の日本の音曲同様、仏教とともに渡来した梵唄(ぼんばい)から声明(しょうみょう)、和賛(わさん)に神道系の山伏祭文(さいもん)から芸能化した歌祭文の要素が加わり、さらに説教節などが基調となって弔歌連(ちょんがれ)という芸能が生まれた。
この弔歌連や、でろりん祭文を統合して、節の合間に語りの部分を導入して人気を博したのが浪花伊助という芸人。
さらにこの改良弔歌連に義太夫や琵琶の長所を取り入れ、三味線を伴奏とした新しい芸能を創案したのが京山恭安斎。 関西方面で大いに歓迎され、浮連節(うかれぶし)として幕末期に興行された。
明治期半ばまでは掛け小屋で興行することが多く、大道芸人として軽んじられていた。

明治二十年代頃から浪花節は勢力を増してきて、地位の高い寄席でも掛けられるようになってきた。
関西では浮連節専門の寄席ができ、しだいに数を増していった。

明治四十年六月、桃中軒雲右衛門(とうちゅうけんくもえもん)が東京の本郷座で二十七日間興行し、大入り続きの成功を収めた。
この時は金屏風を巡らせた舞台中央に華やかなテーブルかけで覆った立ち机に羽織袴の演者が登場。
並んで演奏していた三味線奏者を金屏風の陰に隠した。
これは当時の壮士の演説会を模倣した演出らしいが、曲師をしていた美しい妻を、観客が狙わないように隠したともいわれている。
演題もそれまでの庶民的なものから、武士道鼓吹と称し〈義士伝〉が中心に据えられた。

その後、レコードの全国的な普及によって、浪花節の地方巡業も華々しくもてはやされた。

広沢虎造と日本の音曲・語り芸

清水次朗長伝

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