広沢虎造
1899年、東京芝白金に生まれる。
子供の頃から浪花節が好きで、15、6歳の頃に天狗連(アマチュア芸人の集まり)の真打ちに。
街の人気者となり、プロを目指す。
19歳の年に大阪へ走って初代広沢寅吉の弟子になり、23歳で真打ち、二代目広沢虎造を襲名した。
意気揚々と帰京するも、大阪で評判になったのは、棹(さお)の太い三味線を使った低調子と、メロディー主体で柔らかな哀歓が身上の関西節。
高音主体の三味線と、歯切れのいい台詞中心の関東節が流行っていた東京では、まるで受けない。
そんな時、当時〈八丁荒らし〉と呼ばれるほど人気を得ていた神田伯山の講談〈次朗長伝〉を聴いた。
明治大正時代には、東京には各町内ごとに寄席や講釈場があったが、人気者が出演する小屋に客が集中して押しかけ、八丁四方の寄席から客がいなくなる現象を八丁荒らしといった。
伯山の歯切れのいい啖呵に惚れ込んだ虎造は、〈次朗長伝〉を浪花節で口演しようと考える。
虎造は後年、〈次朗長伝〉は伯山からじかに教わったと述べているが、浪曲の研究家である芝清之(しばきよし)氏の調査によると、そのような事実は無かったようだ。
新興の芸能だった浪花節は、講談からネタを取り入れると同時に、人気も奪ってしまっていた。
〈次朗長伝〉は伯山の苦心作である。
浪花節の若手に譲るなどあり得なかった。
では、虎造は〈次朗長伝〉をどうやって覚えたのか。
もちろん伯山の速記本も出版されていたので、それで覚えることもあっただろうが、伯山の弟子に〈神田ろ山〉という人がいて、伯山譲りの〈次朗長伝〉を演じていた。
この人から習ったのが事実らしい。
ろ山はこの行為によって伯山の怒りを買い、東京から追い出されて、虎造一行と一緒に旅興行に出ている。
また、旅興行の一行に、落語家の司馬龍生(しばりゅうしょう)がいて、虎造は彼から笑いの工夫を受けたようだ。
〈石松三十石船道中〉で、「すしを食いねぇ」は伯山の言葉だが、「江戸っ子だってねぇ」、「神田の生まれよ」、「馬鹿は死ななきゃなおらない」は龍生のアドバイスで作られた虎造オリジナルなのだ。
江戸っ子の代わりに甲州の男が登場する浪花節の次朗長伝もある。
虎造より前に次朗長伝を演じていた、玉川勝太郎のそれである。
勝太郎は伯山と一緒に講釈師から次朗長伝を譲り受けたので、伯山は次朗長伝を演じる時に、「浪花節では勝太郎が十八番でやっております」と初代勝太郎を立てた。
しかし、明るさと人気では虎造に敵わない。
二代目勝太郎は次朗長伝を演じることは少なくなった。
しかし勝太郎の重厚な声節には、暗さと凄みが漂う〈天保水滸伝〉や〈忠治山形屋〉といった作品がよく似合う。
虎造は次朗長伝の前は国定忠治を演じていたが、こちらは勝太郎に譲る形となった。
1959年、『次郎吉伝』の深夜録音中に脳溢血で倒れ、言語障害を発症。
リハビリに取り組むも回復せず、1963年の、浅草・国際劇場での引退興行で、口上だけを述べて浪曲界から身を引き、翌1964年死去した。
昭和浪曲界最高の人気者だった。